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陸奥宗光の蹇蹇録 その11-1)日清戦争外交秘録 朝鮮内政改革の第二期 [明治の戦争]
陸奥宗光の蹇蹇録 その11-1)日清戦争外交秘録 朝鮮内政改革の第二期
明治27年7月23日事変のあと、日清交戦の原因である朝鮮の独立と内政改革を明確にする必要があった。
大鳥公使に電訓し、8月20日、暫定合同条規を締結、26日、日韓両国同盟という攻守同盟条約を締結した。
前者は、(1)内政改革保証(2)鉄道建設は日本または日本の会社が起工する(3)すでに架設した軍用電線は在留(4)全羅道に通商港(5)23日、王宮近傍の両国衝突事件の瑕疵は追求しない(6)独立自主のため、委員を派遣し会同議定。
後者は、(1)清兵を国境外に撤退させ、朝鮮の自主独立、日朝両国の利益を目的とする(2)日本は清国に対する攻守に任じ、朝鮮国は日本兵に便宜(3)清国と平和条約が成立したらこの同盟は破棄する。
後者の同盟は日清交戦の終了まで効力があり、欧米列国からも意義がなかったが、しかし、前者の条規は内政改革に効果がなく、空文のようになったことは後に述べる。
7月23日前後の朝鮮政府は、大院君が王妃の親戚である閔氏への復讐を行うことから始まった。王妃の身も危険だったが、我が公使がそのような行為を禁じた。人心収攬のため、多くの政党に多少の満足を与える必要があるのはいずれの国も同じである。
穏和漸進の老輩として人望があった金宏集、魚允中一派に、大院君は内閣を組織させた。
この他、日本党と称するものがあった。金嘉鎮、金鶴羽、ゆ吉しゅん、安けい寿、及び金玉均、朴泳孝らの残党を糾合したものであるが強大ではない。閔族の時代には地方に棄てられたり、海外に放逐されていたものだ。彼らは多少の知識を有し、日本語、英語を解する便利があり、日本公使館も近親したため、勢力を持った。
(つづく)
明治27年7月23日事変のあと、日清交戦の原因である朝鮮の独立と内政改革を明確にする必要があった。
大鳥公使に電訓し、8月20日、暫定合同条規を締結、26日、日韓両国同盟という攻守同盟条約を締結した。
前者は、(1)内政改革保証(2)鉄道建設は日本または日本の会社が起工する(3)すでに架設した軍用電線は在留(4)全羅道に通商港(5)23日、王宮近傍の両国衝突事件の瑕疵は追求しない(6)独立自主のため、委員を派遣し会同議定。
後者は、(1)清兵を国境外に撤退させ、朝鮮の自主独立、日朝両国の利益を目的とする(2)日本は清国に対する攻守に任じ、朝鮮国は日本兵に便宜(3)清国と平和条約が成立したらこの同盟は破棄する。
後者の同盟は日清交戦の終了まで効力があり、欧米列国からも意義がなかったが、しかし、前者の条規は内政改革に効果がなく、空文のようになったことは後に述べる。
7月23日前後の朝鮮政府は、大院君が王妃の親戚である閔氏への復讐を行うことから始まった。王妃の身も危険だったが、我が公使がそのような行為を禁じた。人心収攬のため、多くの政党に多少の満足を与える必要があるのはいずれの国も同じである。
穏和漸進の老輩として人望があった金宏集、魚允中一派に、大院君は内閣を組織させた。
この他、日本党と称するものがあった。金嘉鎮、金鶴羽、ゆ吉しゅん、安けい寿、及び金玉均、朴泳孝らの残党を糾合したものであるが強大ではない。閔族の時代には地方に棄てられたり、海外に放逐されていたものだ。彼らは多少の知識を有し、日本語、英語を解する便利があり、日本公使館も近親したため、勢力を持った。
(つづく)
朝鮮戦争の実際11 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その11) 7章 大論争 [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際11 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その11) 7章 大論争
いよいよ朝鮮戦争に中国が参戦して60年であるが、周恩来、林彪らが反対していたこと、逆に毛沢東、高崗、鄧小平が参戦のために動いたことが印象的だった。早期参戦の理由は、3つのルートで米国が中国に侵攻するという固い信念であり、半島北部まで占領されては反撃不能ということ、数年すると日本が復興してしまうことなどであった。
1節 出兵の緊急決定
金日成の緊急出兵要請(10月1日)
自力で国連軍の北上を阻止できないと判断した朝鮮指導部は、9月28日労働党中央政治局緊急会議を開き、ソ連と中国に直接の軍事支援を求めることとした。ソ連大使を通じてスターリンに要請されたが、スターリンは10月1日に金日成と毛沢東にそれぞれ電報を送った。中国と先に協議をせねばならないと表明。
28日にすでに中国にも依頼を出していたが、ソ連の支援がないことを知った1日夜、金日成は中国に支援部隊の派遣を正式に要請した。ピョンヤンの中国大使館に対してである(柴成文の証言)。電報の形で北京に送られた。
1回目の書記局討論(10月1日夜)
国慶節の祝賀の後、朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時が残され、中南海の頤年堂会議室で書記局会議を行った。会議記録が残されなかったが、毛沢東主導で参戦への調整がなされたが、周恩来の意見で2日の書記局拡大会議で検討した上で結論を出すこととなった。
この夜、毛沢東は東北の高崗、鄧華に緊急電報を送った。
矛盾する二つの電報(10月2日)
拡大会議では、毛、朱、劉(周は病気欠席)と駆けつけた高崗、参謀長代理の聶栄臻も参加。出兵反対派、慎重派が大半となり、毛が孤立する。
毛沢東がスターリンに送ったとされる電報が二通、全く逆の内容である。A電報ひゃ、文稿第1巻に収録されているが、参戦の決定が書かれている。90年代にソ連の公文書が発表され、正反対のB電報が発見された。これが実際に送られたものであった。
「早期参戦を見送る」
B電報では、義勇軍を送り込むことは深刻な結果をもたらす、前面衝突の恐れがある、ゲリラ戦に切り替えるべき、などの内容が書かれていた。これを打電したローシチン大使のコメントでも、中国が豹変したこと、ネルーを通じての米英集団の陰謀などを推測していた。
これに対して、スターリンが返電、中国を戦争へ誘い込もうとした。約束を忘れるな、恐れるべきでないと主張した。朱は、毛沢東は挑発に乗りやすい性格で、ノーと言えなくなったと論じる。
2節 激論を経て参戦が決まる
金日成親書を携えた朴一禹の訪中(10月3日)
38度線突破の情報が入り、北進に対して中国は介入するとの米国へのメッセージを、周はインドのパニッカー大使に託した。
3日になってやっと到着した北朝鮮の朴一禹内相が要請文を毛沢東に手渡し、出兵を要請した。彼は元々延安派幹部で、毛の心理的衝撃は大きかった。
林彪が参戦軍司令官の就任を拒否
毛は、林彪から司令官就任を断られた。この経緯は3つほど説がある。朱は、3日に司令官要請がなされたと推測する。拒否理由は主に二つで、「政権維持を優先すべき」、「勝利の可能性が低い」であった。しかし、対立を避けるため健康状態を理由とした。4日、彭徳懐を召集する。毛は3日の段階で、早期参戦に動き出した。
政治局拡大会議(10月4日)
4日の午後3時から、頤年堂会議室で始まった。ここでも参戦反対意見が噴出した。すでに資料が公開されている。毛は、部下の異議で、すでに出兵の好機を数回逸していると考えていた。最後の参戦契機と見ていたろう。毛は、43年3月の党中央政治局会議の内部決定により、意見の相違が生じた場合に最終的決定権を行使できたので、自信があったが、個人説得で巻き返そうと、翌日に持ち越した。
3節 毛沢東の勝利
政治局拡大会議(10月5日)
毛の意向を受け、鄧小平が彭徳懐と密談、参戦賛成を確認した。毛は彭と会って、司令官を要請。中央の決定に従うと返答した。ローチシンの証言では、周恩来と対立した高崗が彭徳懐を説得して、毛に参戦を提案したという。早期参戦の理由は、3つのルートで米国が中国に侵攻するという固い信念であり、半島北部まで占領されては反撃不能ということ、数年すると日本が復興してしまうことなどであった。毛の主導で論戦が止まり、採択された。
会議参加者リストと対立の構図
22人のリストのうち、2名の欠席者は欠席なのか、参戦に反対していたので毛沢東により出席リストから消されたのかが論じられている。
韓国軍のみの北上でも中国参戦
4日、5日の段階では、国連軍は38度線を北上していなかった。韓国軍だけだった。この場合の参戦についても論じられているが、証言が分かれる。周恩来がパッカニーに語った内容では、韓国軍だけなら問題はないとした。また、北京の研究者の言うように、韓国軍だけの北上なら対応は違い、人民軍の軍服で、数万程度の参戦で、決して参戦の事実を公にしない予定だった。実際、軍服を大量調達していた。
大論争の評価
朱は、これらの会議における毛の主導は、数年後のプロレタリア独裁とは違うと論じる。
また、たとえ周恩来や劉少奇が首脳でも、マッカーサー軍が北進を続ければ、参戦したろうとする。中国まで侵攻しないというトルーマンの約束は信じられていなかった。
また、激論にもかかわらず、その後団結があった。権力争いではなく、根に持たなかった。当時はまだ自由に発言できたともいえる。
なお、戦後、林彪、高崗、劉少奇が出兵に反対したと暴露されたが、決めつけるのが中国人の悪いところと、柴成文が証言していた。
いよいよ朝鮮戦争に中国が参戦して60年であるが、周恩来、林彪らが反対していたこと、逆に毛沢東、高崗、鄧小平が参戦のために動いたことが印象的だった。早期参戦の理由は、3つのルートで米国が中国に侵攻するという固い信念であり、半島北部まで占領されては反撃不能ということ、数年すると日本が復興してしまうことなどであった。
1節 出兵の緊急決定
金日成の緊急出兵要請(10月1日)
自力で国連軍の北上を阻止できないと判断した朝鮮指導部は、9月28日労働党中央政治局緊急会議を開き、ソ連と中国に直接の軍事支援を求めることとした。ソ連大使を通じてスターリンに要請されたが、スターリンは10月1日に金日成と毛沢東にそれぞれ電報を送った。中国と先に協議をせねばならないと表明。
28日にすでに中国にも依頼を出していたが、ソ連の支援がないことを知った1日夜、金日成は中国に支援部隊の派遣を正式に要請した。ピョンヤンの中国大使館に対してである(柴成文の証言)。電報の形で北京に送られた。
1回目の書記局討論(10月1日夜)
国慶節の祝賀の後、朱徳、劉少奇、周恩来、任弼時が残され、中南海の頤年堂会議室で書記局会議を行った。会議記録が残されなかったが、毛沢東主導で参戦への調整がなされたが、周恩来の意見で2日の書記局拡大会議で検討した上で結論を出すこととなった。
この夜、毛沢東は東北の高崗、鄧華に緊急電報を送った。
矛盾する二つの電報(10月2日)
拡大会議では、毛、朱、劉(周は病気欠席)と駆けつけた高崗、参謀長代理の聶栄臻も参加。出兵反対派、慎重派が大半となり、毛が孤立する。
毛沢東がスターリンに送ったとされる電報が二通、全く逆の内容である。A電報ひゃ、文稿第1巻に収録されているが、参戦の決定が書かれている。90年代にソ連の公文書が発表され、正反対のB電報が発見された。これが実際に送られたものであった。
「早期参戦を見送る」
B電報では、義勇軍を送り込むことは深刻な結果をもたらす、前面衝突の恐れがある、ゲリラ戦に切り替えるべき、などの内容が書かれていた。これを打電したローシチン大使のコメントでも、中国が豹変したこと、ネルーを通じての米英集団の陰謀などを推測していた。
これに対して、スターリンが返電、中国を戦争へ誘い込もうとした。約束を忘れるな、恐れるべきでないと主張した。朱は、毛沢東は挑発に乗りやすい性格で、ノーと言えなくなったと論じる。
2節 激論を経て参戦が決まる
金日成親書を携えた朴一禹の訪中(10月3日)
38度線突破の情報が入り、北進に対して中国は介入するとの米国へのメッセージを、周はインドのパニッカー大使に託した。
3日になってやっと到着した北朝鮮の朴一禹内相が要請文を毛沢東に手渡し、出兵を要請した。彼は元々延安派幹部で、毛の心理的衝撃は大きかった。
林彪が参戦軍司令官の就任を拒否
毛は、林彪から司令官就任を断られた。この経緯は3つほど説がある。朱は、3日に司令官要請がなされたと推測する。拒否理由は主に二つで、「政権維持を優先すべき」、「勝利の可能性が低い」であった。しかし、対立を避けるため健康状態を理由とした。4日、彭徳懐を召集する。毛は3日の段階で、早期参戦に動き出した。
政治局拡大会議(10月4日)
4日の午後3時から、頤年堂会議室で始まった。ここでも参戦反対意見が噴出した。すでに資料が公開されている。毛は、部下の異議で、すでに出兵の好機を数回逸していると考えていた。最後の参戦契機と見ていたろう。毛は、43年3月の党中央政治局会議の内部決定により、意見の相違が生じた場合に最終的決定権を行使できたので、自信があったが、個人説得で巻き返そうと、翌日に持ち越した。
3節 毛沢東の勝利
政治局拡大会議(10月5日)
毛の意向を受け、鄧小平が彭徳懐と密談、参戦賛成を確認した。毛は彭と会って、司令官を要請。中央の決定に従うと返答した。ローチシンの証言では、周恩来と対立した高崗が彭徳懐を説得して、毛に参戦を提案したという。早期参戦の理由は、3つのルートで米国が中国に侵攻するという固い信念であり、半島北部まで占領されては反撃不能ということ、数年すると日本が復興してしまうことなどであった。毛の主導で論戦が止まり、採択された。
会議参加者リストと対立の構図
22人のリストのうち、2名の欠席者は欠席なのか、参戦に反対していたので毛沢東により出席リストから消されたのかが論じられている。
韓国軍のみの北上でも中国参戦
4日、5日の段階では、国連軍は38度線を北上していなかった。韓国軍だけだった。この場合の参戦についても論じられているが、証言が分かれる。周恩来がパッカニーに語った内容では、韓国軍だけなら問題はないとした。また、北京の研究者の言うように、韓国軍だけの北上なら対応は違い、人民軍の軍服で、数万程度の参戦で、決して参戦の事実を公にしない予定だった。実際、軍服を大量調達していた。
大論争の評価
朱は、これらの会議における毛の主導は、数年後のプロレタリア独裁とは違うと論じる。
また、たとえ周恩来や劉少奇が首脳でも、マッカーサー軍が北進を続ければ、参戦したろうとする。中国まで侵攻しないというトルーマンの約束は信じられていなかった。
また、激論にもかかわらず、その後団結があった。権力争いではなく、根に持たなかった。当時はまだ自由に発言できたともいえる。
なお、戦後、林彪、高崗、劉少奇が出兵に反対したと暴露されたが、決めつけるのが中国人の悪いところと、柴成文が証言していた。
朝鮮戦争の実際10 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その10) 6章 弓につがえられた矢 [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際10 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その10) 6章 弓に
つがえられた矢
1節 ソ連大使にぶつけられた中国指導部の不満
国連軍が仁川に上陸したとの情報は、9月16日に毛沢東、第13軍幹部に伝えられた。
9月18日付ローシチン大使のスターリンへの電報によると、周恩来は朝鮮人民軍の作戦計画も知らされて居らず、平壌から音沙汰がないと不満を述べていた。
18日に金日成が中国大使倪(げい)志亮と会い、長期化せざるを得ないと伝えた。20日に毛沢東の添削を経た周恩来の返電が送られた。
また、27日、30日に倪志亮と会い、すでに南部の主力が切断されたことが伝えられた。10月1日、毛沢東は南方の主力の半分を小グループにして北方に帰還させ、半分をゲリラにするように伝えた。こうして、初めてモスクワ経由でない連絡が始まった。
加速された参戦準備
仁川上陸直後、金日成は、内相朴一禹を鴨緑江左岸の安東に派遣し、第13軍首脳に参戦を要請した。
高崗は極秘にピョンヤンを訪問している。
20日、周恩来の責任で、参戦時の作戦方針に関する基本原則が制定され、自力更生の持久戦とされた。
東北辺防軍首脳は、4人の情報部員を含む5人を朝鮮に派遣し、状況把握と地形調査に当たらせた。
張明遠、崔醒農、何凌登、湯敬仲、黎非であった。柴成文の引率でピョンヤン到着後、金日成の信任状をもらった。
9月末に、中央人民政府委員の非共産党メンバーにも参戦の決意を通報したところ、黄炎培が「支援軍」では主体が中国政府になるので、米国に口実を与える、スペイン内戦の先例で「義勇軍」(中国語で志願軍)とすることを提案、毛と周が変更した。
「放置する訳に行かない」
9月16日、毛沢東は山東沿海の米軍機の侵入を放置することは妥当でないと周恩来に指示、24日、27日に国連事務総長あてに抗議電報を送った。
慎重に言葉を選び、38度線を越えたら中国は座視しないというメッセージを送った。つまり、38度線を越えたら参戦という意味になるが、実はこのメッセージはアメリカ側にはその意味では伝わっていなかったことが分かる。
「放置する訳に行かない」という言葉は、中国語で「不能置之不理」で、闘志を隠しながら、容認しないという意志も込められているが、後に米国は、中国の参戦は不意打ちであると批判する。中国側は、この時事前警告したと反論している。ここにずれがあった。
2節 軍内の政治動員
対米厭戦気分が蔓延していたため、米国を敵視する教育が始まった。50年8月中旬の第13軍の思想状況分析では、積極分子が50%、中間分子が40%、のこりが恐怖を抱いているとした。
1839年の米軍艦の寄港、58年の天津条約などから侵略として列挙していた。国共内戦の負傷は、米国製の弾によるのだと強調された。こうして2ヶ月の教育で志気が高まり、10月の義勇軍への志願は多かった。
3節 「一級厳戒態勢」と軍事準備
「近接戦」「夜戦」を採用した。
39軍ではソ連製武器が入ったが、38軍は旧日本軍型に統一、40軍は米軍型に統一した。2千人の中国籍朝鮮人連絡員を確保した。多くを共産党員から選んだ。570人の通訳も選んだ。彼らは対民衆宣伝、交渉などに大きな役割を果たし、米国と韓国から中国軍の七不思議といわれた。
つがえられた矢
1節 ソ連大使にぶつけられた中国指導部の不満
国連軍が仁川に上陸したとの情報は、9月16日に毛沢東、第13軍幹部に伝えられた。
9月18日付ローシチン大使のスターリンへの電報によると、周恩来は朝鮮人民軍の作戦計画も知らされて居らず、平壌から音沙汰がないと不満を述べていた。
18日に金日成が中国大使倪(げい)志亮と会い、長期化せざるを得ないと伝えた。20日に毛沢東の添削を経た周恩来の返電が送られた。
また、27日、30日に倪志亮と会い、すでに南部の主力が切断されたことが伝えられた。10月1日、毛沢東は南方の主力の半分を小グループにして北方に帰還させ、半分をゲリラにするように伝えた。こうして、初めてモスクワ経由でない連絡が始まった。
加速された参戦準備
仁川上陸直後、金日成は、内相朴一禹を鴨緑江左岸の安東に派遣し、第13軍首脳に参戦を要請した。
高崗は極秘にピョンヤンを訪問している。
20日、周恩来の責任で、参戦時の作戦方針に関する基本原則が制定され、自力更生の持久戦とされた。
東北辺防軍首脳は、4人の情報部員を含む5人を朝鮮に派遣し、状況把握と地形調査に当たらせた。
張明遠、崔醒農、何凌登、湯敬仲、黎非であった。柴成文の引率でピョンヤン到着後、金日成の信任状をもらった。
9月末に、中央人民政府委員の非共産党メンバーにも参戦の決意を通報したところ、黄炎培が「支援軍」では主体が中国政府になるので、米国に口実を与える、スペイン内戦の先例で「義勇軍」(中国語で志願軍)とすることを提案、毛と周が変更した。
「放置する訳に行かない」
9月16日、毛沢東は山東沿海の米軍機の侵入を放置することは妥当でないと周恩来に指示、24日、27日に国連事務総長あてに抗議電報を送った。
慎重に言葉を選び、38度線を越えたら中国は座視しないというメッセージを送った。つまり、38度線を越えたら参戦という意味になるが、実はこのメッセージはアメリカ側にはその意味では伝わっていなかったことが分かる。
「放置する訳に行かない」という言葉は、中国語で「不能置之不理」で、闘志を隠しながら、容認しないという意志も込められているが、後に米国は、中国の参戦は不意打ちであると批判する。中国側は、この時事前警告したと反論している。ここにずれがあった。
2節 軍内の政治動員
対米厭戦気分が蔓延していたため、米国を敵視する教育が始まった。50年8月中旬の第13軍の思想状況分析では、積極分子が50%、中間分子が40%、のこりが恐怖を抱いているとした。
1839年の米軍艦の寄港、58年の天津条約などから侵略として列挙していた。国共内戦の負傷は、米国製の弾によるのだと強調された。こうして2ヶ月の教育で志気が高まり、10月の義勇軍への志願は多かった。
3節 「一級厳戒態勢」と軍事準備
「近接戦」「夜戦」を採用した。
39軍ではソ連製武器が入ったが、38軍は旧日本軍型に統一、40軍は米軍型に統一した。2千人の中国籍朝鮮人連絡員を確保した。多くを共産党員から選んだ。570人の通訳も選んだ。彼らは対民衆宣伝、交渉などに大きな役割を果たし、米国と韓国から中国軍の七不思議といわれた。
朝鮮戦争の実際9 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その9) 5章 高崗と林彪の異議申し立て [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際9 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その9) 5章 高崗と林彪の異議申し立て
1節 9月出兵構想とその延期
政治局会議
中国の出兵をめぐる政策決定過程の第1段階、前期が、8月4日の政治局会議であった。
毛沢東と周恩来が朝鮮戦争への中国の介入の準備を加速するよう発言。毛は、米国から原爆を落とされても戦うとした。
ただし、この会議の詳しい内容が明らかになっていない。
8月5日、決定を受けて毛は中央軍事委の名義で、高崗に電報を送る。
9月上旬には実戦に投入できるように指示した。
聶栄臻は東北辺防軍に9月参戦の電報を送った。
朱は、この時点で半島北部だけか、南下支援かは不明としている。
洪学智によると、彼は8月9日に中央軍事委の林彪から東北国境防衛を命じられた。
瀋陽軍事会議
高崗は、8月13、14日に辺防軍高級将校会議、つまり瀋陽軍事会議で北京の命令を周知した。
「義勇軍」の名義による参戦が決定される
義勇軍の名称を使うこと、服、旗、部隊名、人名で朝鮮人を装うことをすでに指示していた。
この時、暫時参戦を思いとどまるべきとの意見が多数を占めたことが、いくつかの日記、回想録の分析から明らかである。
この時の主催者側の誘導は、後から見ると間違えも多い。半島は兵站輸送に有利としたのは、実際は違った。また、世界人民の同情があるともしていた。
毛沢東の4日の原爆投下されても戦うという発言が、最初に伝えられ、反対意見が封じられていた。ホワイティングのいうように、原爆の影響への低い評価があった。
参戦準備期間の延長
14日、集団軍側は、鄧(とう)華、洪学智、解方の3人名義で、同じ瀋陽にいる高崗、賀晋年、蕭勁光、蕭華に電報、同時に北京の中央軍事委に転送する形で、出国作戦準備を9月末に延ばすことを提案した。高崗も支持し、毛沢東に打電した。
毛沢東は妥協を余儀なくされ、18日に「9月末までに準備せよと」の返事を送った。聶栄臻から第13集団軍鄧華司令官にも送られた。
こうして、9月参戦の方針は変更された。朱は、8月中旬に、国連軍作戦の認識が進み、北京の首脳部でも悲観論がくすぶり、内部調整を必要としたのだろうと考察している。
2節 仁川上陸の予測
雷英夫の報告(8月23日)
朱は、朝鮮人民軍が西海岸沿いの輸送ラインを確保する軍事常識を怠った理由を考察する(ソウルで革命と蜂起が起こると思っていたなど)。
中国は比較的冷静に情勢分析していた。
7月2日、ソ連のローシチン大使が「仁川に守備部隊を置くべきだ。米軍海兵隊がそこから上陸する可能性があるからだ」との中国指導部の提案を電報でモスクワに送っていた。
8月中下旬、中国指導部は、米軍が反撃してくるシナリオを憂慮。総参謀作戦室主任、雷英夫は仁川上陸の可能性について報告書を出した。
朱は、この雷英夫にインタビューをし、やりとりを載せている。
勇気を出して周総理に報告に行ったとのこと。
根拠の6ヶ条。釜山に朝鮮人民軍を引きつけて、日本で主力を訓練している、仁川なら輸送路を断ち切れるなど。
毛沢東は3つの指示を出した。
金日成への通報
雷は、9月10日、台風が仁川を直撃した頃、不安で不眠になっていた。15日の仁川上陸が伝わり、内心ホッとした。ソ連と朝鮮がこの予測を無視したのは、中国を軽視していたからであるとした。
マッカーサー回顧録によると、仁川、元山、群山でいくらかの対策が取られていたので、少しは考慮したと思われる。
元朝鮮軍副参謀長の李相朝の証言。
毛沢東からの指示を伝えるために帰国してすぐ仁川上陸が始まってしまった(あまりにおそすぎる)。
第13集団軍の予測意見
8月31日、鄧華、洪学智、解方の3人の連名で意見書を出している。
林彪に送られ、9月7日には毛沢東に回された。朱によると、北京の研究者の話しでは、毛沢東が冷静さを失い始めたのは、50年11月末、義勇軍がマッカーサーのクリスマス攻勢を撃破した時からだという。
3節 三段階兵力配備計画
対米非難のエスカレート
8月中旬以降は、米帝国主義の台湾朝鮮侵略という表現で激しく反応していた。当時はソ連依存が強かった。
第二次国防軍時会議(8月26日~31日)
周恩来が召集した数回の会議の総称。70万人を総規模とする三段階配備案が4日間で現実化した。参戦1年目での死者を20万人としていた。
第13集団軍の報告書(8月31日)
上記の内容。参戦時期は、敵軍が38度線以北まで進出した期をよしとする。短期決戦など。北京と13軍の意見の相違は縮まったかに見えた。
2回目の意見相違(9月上旬)
柴成文が9月1日に北京に召集された時の証言。柴は周恩来に悲観的見通しを述べた。
輸送と通訳の問題を挙げた。3日、林彪が突然、我々が参戦せず、彼ら(朝鮮人)にゲリラ戦をやらせることはどう思うか聞かれた。参戦しない主張が中央にあることに柴は驚いた。林彪は参戦の危険性を知っており、毛沢東の一人歩きに危機感を持っていた。10月に林彪が総司令官就任を拒否をすることにつながる。
朱によると、柴が証言できたのは、林彪が名誉回復されていないためである。
林彪は、中国義勇軍は鴨緑江を渡河せず、戦争を朝鮮半島に封じ込め、戦火が中国に及ばないことを優先するべきと考えた。金日成は山に入るが、亡命政権を中国内に作らせるなどを考えていた。
林彪、高崗は毛沢東の信頼を受けた部下だった。くいちがいがあっても、備えには異論を持っていなかった。
これが10月になると一変する。毛沢東は、慎重派に対して、戦闘的な思想を教育し始める。
1節 9月出兵構想とその延期
政治局会議
中国の出兵をめぐる政策決定過程の第1段階、前期が、8月4日の政治局会議であった。
毛沢東と周恩来が朝鮮戦争への中国の介入の準備を加速するよう発言。毛は、米国から原爆を落とされても戦うとした。
ただし、この会議の詳しい内容が明らかになっていない。
8月5日、決定を受けて毛は中央軍事委の名義で、高崗に電報を送る。
9月上旬には実戦に投入できるように指示した。
聶栄臻は東北辺防軍に9月参戦の電報を送った。
朱は、この時点で半島北部だけか、南下支援かは不明としている。
洪学智によると、彼は8月9日に中央軍事委の林彪から東北国境防衛を命じられた。
瀋陽軍事会議
高崗は、8月13、14日に辺防軍高級将校会議、つまり瀋陽軍事会議で北京の命令を周知した。
「義勇軍」の名義による参戦が決定される
義勇軍の名称を使うこと、服、旗、部隊名、人名で朝鮮人を装うことをすでに指示していた。
この時、暫時参戦を思いとどまるべきとの意見が多数を占めたことが、いくつかの日記、回想録の分析から明らかである。
この時の主催者側の誘導は、後から見ると間違えも多い。半島は兵站輸送に有利としたのは、実際は違った。また、世界人民の同情があるともしていた。
毛沢東の4日の原爆投下されても戦うという発言が、最初に伝えられ、反対意見が封じられていた。ホワイティングのいうように、原爆の影響への低い評価があった。
参戦準備期間の延長
14日、集団軍側は、鄧(とう)華、洪学智、解方の3人名義で、同じ瀋陽にいる高崗、賀晋年、蕭勁光、蕭華に電報、同時に北京の中央軍事委に転送する形で、出国作戦準備を9月末に延ばすことを提案した。高崗も支持し、毛沢東に打電した。
毛沢東は妥協を余儀なくされ、18日に「9月末までに準備せよと」の返事を送った。聶栄臻から第13集団軍鄧華司令官にも送られた。
こうして、9月参戦の方針は変更された。朱は、8月中旬に、国連軍作戦の認識が進み、北京の首脳部でも悲観論がくすぶり、内部調整を必要としたのだろうと考察している。
2節 仁川上陸の予測
雷英夫の報告(8月23日)
朱は、朝鮮人民軍が西海岸沿いの輸送ラインを確保する軍事常識を怠った理由を考察する(ソウルで革命と蜂起が起こると思っていたなど)。
中国は比較的冷静に情勢分析していた。
7月2日、ソ連のローシチン大使が「仁川に守備部隊を置くべきだ。米軍海兵隊がそこから上陸する可能性があるからだ」との中国指導部の提案を電報でモスクワに送っていた。
8月中下旬、中国指導部は、米軍が反撃してくるシナリオを憂慮。総参謀作戦室主任、雷英夫は仁川上陸の可能性について報告書を出した。
朱は、この雷英夫にインタビューをし、やりとりを載せている。
勇気を出して周総理に報告に行ったとのこと。
根拠の6ヶ条。釜山に朝鮮人民軍を引きつけて、日本で主力を訓練している、仁川なら輸送路を断ち切れるなど。
毛沢東は3つの指示を出した。
金日成への通報
雷は、9月10日、台風が仁川を直撃した頃、不安で不眠になっていた。15日の仁川上陸が伝わり、内心ホッとした。ソ連と朝鮮がこの予測を無視したのは、中国を軽視していたからであるとした。
マッカーサー回顧録によると、仁川、元山、群山でいくらかの対策が取られていたので、少しは考慮したと思われる。
元朝鮮軍副参謀長の李相朝の証言。
毛沢東からの指示を伝えるために帰国してすぐ仁川上陸が始まってしまった(あまりにおそすぎる)。
第13集団軍の予測意見
8月31日、鄧華、洪学智、解方の3人の連名で意見書を出している。
林彪に送られ、9月7日には毛沢東に回された。朱によると、北京の研究者の話しでは、毛沢東が冷静さを失い始めたのは、50年11月末、義勇軍がマッカーサーのクリスマス攻勢を撃破した時からだという。
3節 三段階兵力配備計画
対米非難のエスカレート
8月中旬以降は、米帝国主義の台湾朝鮮侵略という表現で激しく反応していた。当時はソ連依存が強かった。
第二次国防軍時会議(8月26日~31日)
周恩来が召集した数回の会議の総称。70万人を総規模とする三段階配備案が4日間で現実化した。参戦1年目での死者を20万人としていた。
第13集団軍の報告書(8月31日)
上記の内容。参戦時期は、敵軍が38度線以北まで進出した期をよしとする。短期決戦など。北京と13軍の意見の相違は縮まったかに見えた。
2回目の意見相違(9月上旬)
柴成文が9月1日に北京に召集された時の証言。柴は周恩来に悲観的見通しを述べた。
輸送と通訳の問題を挙げた。3日、林彪が突然、我々が参戦せず、彼ら(朝鮮人)にゲリラ戦をやらせることはどう思うか聞かれた。参戦しない主張が中央にあることに柴は驚いた。林彪は参戦の危険性を知っており、毛沢東の一人歩きに危機感を持っていた。10月に林彪が総司令官就任を拒否をすることにつながる。
朱によると、柴が証言できたのは、林彪が名誉回復されていないためである。
林彪は、中国義勇軍は鴨緑江を渡河せず、戦争を朝鮮半島に封じ込め、戦火が中国に及ばないことを優先するべきと考えた。金日成は山に入るが、亡命政権を中国内に作らせるなどを考えていた。
林彪、高崗は毛沢東の信頼を受けた部下だった。くいちがいがあっても、備えには異論を持っていなかった。
これが10月になると一変する。毛沢東は、慎重派に対して、戦闘的な思想を教育し始める。
朝鮮戦争の実際8 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その8)4章 対ベトナム・台湾の戦略調整 [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際8 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その8)4章 対ベトナム・台湾の戦略調整
4章 対ベトナム・台湾の戦略調整
第1節 陳庚(庚の下に貝、以下陳庚)将軍のベトナム派遣 要約
中国は、軍事レベル、政策方針のレベル、そして外部環境整備で準備を始める。
中国が7月に対米戦の準備を始めたことはこれまで隠蔽されてきたが、実際はベトナム、台湾、チベットの進行計画の調整を行った。
50年1月にホーチミンが訪中の後、訪ソし、そこで毛沢東、周恩来と会い、スターリンと会談した。
顧問派遣要請にもかかわらず、中国はフランスに対して国連加盟工作を行っていたため、朝鮮戦争勃発前に顧問を送ることはなかった。
勃発後の6月30日に顧問を派遣。また、軍事指揮官として西南軍区副司令官兼雲南軍区司令官の陳庚を派遣した。
9月初旬、中国内で訓練をしたベトナム308師団を武器装備して帰国させた。
(朱は、内部発行の陳庚日記(続)から、朝鮮戦争とのつながりを紹介しているが、共産主義拡張をめざしているようにも受け取られかねないとコメントしたあと、三路向心迂回が先と論じている)。
49年末、国民党の残存兵力がベトナムに逃げ込んでいた。国民党、米国、フランスが内外呼応して攪乱を企図しているのだと陳庚は日記に記している。
4ヶ月の日記の中に、毛沢東、中央軍事委員会からの電報指示が4回記載されている。
西南局からの鄧(とう)小平書記の電報も数回あった。
6月27日のトルーマン声明は、仏軍支持にも言及されていた。20万にふくれあがる大軍を、越北以前にたたく必要があった。
7月18日、西南局(鄧小平)から、主力二個連隊の同意を得た。しかし、その後有利に展開したため、この事実は隠蔽されることとなった。
10月14日の義勇軍幹部の動員大会で、彭徳懐がベトナムでの作戦に触れたように、フランスを国連軍に派遣できなくさせていた。
朝鮮を米国が押さえた場合を計算し、インドシナ半島からの爆撃を阻止する長期的な態勢を整えていた。
10月17日の日記によると、陳庚はベトナム人民軍の創設に着手した。
6月28日の周恩来の声明では、日本での外部環境整備にも触れている。
2節 台湾進攻作戦の延期 要約
第三野戦軍の数十万の大軍が、福建沿海で渡海訓練していたが、朝鮮戦争勃発で、米国第七艦隊が台湾海峡に介入した。
シモンズによると、7月中旬の進行計画が延期され、中国内はピョンヤンに不満を持っていたとされる。しかし、朱は7月、8月の実行計画は実際にはなかったと論じる。
49年の国共内戦に米国が介入しなかったのを見て、50年1月に12個軍団を第一陣の渡海作戦とする台湾攻略作戦が計画されたが、49年10月下旬の金門作戦の失敗で転換した。
毛沢東自ら、50年2月、先に舟山、金門を攻略する方針を具体的に数々指示。ついに、金門再攻撃は実施できなかった。
毛沢東は5月中旬に、台湾よりも朝鮮優先を渋々受け入れたのである。そして、台湾解放は16個軍団で、51年春以降と決定された。 周軍論文(中共党史研究 1991年1号)
当初空軍の創設を簡単と見ていたが、予想以上の時間を要し、初めてパイロットが空中戦に参加したのは51年1月であった。これも、台湾攻撃が遅れた原因でもあった。
国民党から寝返った巡洋艦「重慶」は撃沈され、50年1月25日には26隻の軍艦が破壊、撃沈されていた。
また、台湾と和平交渉の工作も行っていた。資料 3月11日、張治中あて電文(文稿)
台湾の秘密使者、李次白が6月に北京で接触した。
こうして、6月27日、台湾進攻作戦の準備が中止された。海軍司令官簫勁光は、28日に伝えられている。資料 簫勁光の日記。
司令官栗裕が将校に伝えたのは7月中旬である。
朱によると、沈志華のいうように、トルーマンが第七艦隊を台湾海峡に進駐させたことは、必ずしも蒋介石軍を助ける意図ではなかったが、中国政府の憤慨を招き、米中改善の最後の望みを絶ちきり、義勇軍派遣の心理的要因となった。
台湾解放作戦の中止で、東北地方に大軍を引き抜くことが可能となり、当初よりも大きな義勇兵作戦をもたらし、マッカーサーの精鋭部隊を撃退する要因となった。
これまで明らかにされなかった事実が、みごとに紹介されていると思った。朱建栄が中国政府からどう思われているのか、やや心配になった。
なお、私が留用について下記で紹介したとおり、日本人が空軍に協力していた。
留用された日本人 日中知られざる戦後史 観ました。 中国の空軍創設に日本人が絡んでいた。拘束された側が拘束した者へ親しみを持つストックホルム症候群。
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/31894223.html
これは悲しい事実である。
4章 対ベトナム・台湾の戦略調整
第1節 陳庚(庚の下に貝、以下陳庚)将軍のベトナム派遣 要約
中国は、軍事レベル、政策方針のレベル、そして外部環境整備で準備を始める。
中国が7月に対米戦の準備を始めたことはこれまで隠蔽されてきたが、実際はベトナム、台湾、チベットの進行計画の調整を行った。
50年1月にホーチミンが訪中の後、訪ソし、そこで毛沢東、周恩来と会い、スターリンと会談した。
顧問派遣要請にもかかわらず、中国はフランスに対して国連加盟工作を行っていたため、朝鮮戦争勃発前に顧問を送ることはなかった。
勃発後の6月30日に顧問を派遣。また、軍事指揮官として西南軍区副司令官兼雲南軍区司令官の陳庚を派遣した。
9月初旬、中国内で訓練をしたベトナム308師団を武器装備して帰国させた。
(朱は、内部発行の陳庚日記(続)から、朝鮮戦争とのつながりを紹介しているが、共産主義拡張をめざしているようにも受け取られかねないとコメントしたあと、三路向心迂回が先と論じている)。
49年末、国民党の残存兵力がベトナムに逃げ込んでいた。国民党、米国、フランスが内外呼応して攪乱を企図しているのだと陳庚は日記に記している。
4ヶ月の日記の中に、毛沢東、中央軍事委員会からの電報指示が4回記載されている。
西南局からの鄧(とう)小平書記の電報も数回あった。
6月27日のトルーマン声明は、仏軍支持にも言及されていた。20万にふくれあがる大軍を、越北以前にたたく必要があった。
7月18日、西南局(鄧小平)から、主力二個連隊の同意を得た。しかし、その後有利に展開したため、この事実は隠蔽されることとなった。
10月14日の義勇軍幹部の動員大会で、彭徳懐がベトナムでの作戦に触れたように、フランスを国連軍に派遣できなくさせていた。
朝鮮を米国が押さえた場合を計算し、インドシナ半島からの爆撃を阻止する長期的な態勢を整えていた。
10月17日の日記によると、陳庚はベトナム人民軍の創設に着手した。
6月28日の周恩来の声明では、日本での外部環境整備にも触れている。
2節 台湾進攻作戦の延期 要約
第三野戦軍の数十万の大軍が、福建沿海で渡海訓練していたが、朝鮮戦争勃発で、米国第七艦隊が台湾海峡に介入した。
シモンズによると、7月中旬の進行計画が延期され、中国内はピョンヤンに不満を持っていたとされる。しかし、朱は7月、8月の実行計画は実際にはなかったと論じる。
49年の国共内戦に米国が介入しなかったのを見て、50年1月に12個軍団を第一陣の渡海作戦とする台湾攻略作戦が計画されたが、49年10月下旬の金門作戦の失敗で転換した。
毛沢東自ら、50年2月、先に舟山、金門を攻略する方針を具体的に数々指示。ついに、金門再攻撃は実施できなかった。
毛沢東は5月中旬に、台湾よりも朝鮮優先を渋々受け入れたのである。そして、台湾解放は16個軍団で、51年春以降と決定された。 周軍論文(中共党史研究 1991年1号)
当初空軍の創設を簡単と見ていたが、予想以上の時間を要し、初めてパイロットが空中戦に参加したのは51年1月であった。これも、台湾攻撃が遅れた原因でもあった。
国民党から寝返った巡洋艦「重慶」は撃沈され、50年1月25日には26隻の軍艦が破壊、撃沈されていた。
また、台湾と和平交渉の工作も行っていた。資料 3月11日、張治中あて電文(文稿)
台湾の秘密使者、李次白が6月に北京で接触した。
こうして、6月27日、台湾進攻作戦の準備が中止された。海軍司令官簫勁光は、28日に伝えられている。資料 簫勁光の日記。
司令官栗裕が将校に伝えたのは7月中旬である。
朱によると、沈志華のいうように、トルーマンが第七艦隊を台湾海峡に進駐させたことは、必ずしも蒋介石軍を助ける意図ではなかったが、中国政府の憤慨を招き、米中改善の最後の望みを絶ちきり、義勇軍派遣の心理的要因となった。
台湾解放作戦の中止で、東北地方に大軍を引き抜くことが可能となり、当初よりも大きな義勇兵作戦をもたらし、マッカーサーの精鋭部隊を撃退する要因となった。
これまで明らかにされなかった事実が、みごとに紹介されていると思った。朱建栄が中国政府からどう思われているのか、やや心配になった。
なお、私が留用について下記で紹介したとおり、日本人が空軍に協力していた。
留用された日本人 日中知られざる戦後史 観ました。 中国の空軍創設に日本人が絡んでいた。拘束された側が拘束した者へ親しみを持つストックホルム症候群。
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/31894223.html
これは悲しい事実である。
朝鮮戦争の実際7 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その7)東北辺防軍の創設と招集 [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際7 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その7)東北辺防軍の創設と招集
引き続きその真実を解明してみたい。
第3章の第2節 「鴨緑江北岸への大軍集結(7月下旬)」を紹介する。
今まで解明されていなかった東北辺防軍の集結過程については、回想録、および2000年の『抗美援朝戦争史』で裏付けられる。
7月13日の中央指導部決定は、大軍区首脳にだけ通達されていた。
杜平の回想を引用している。
開戦まで、具体的指示がなく、河南省にいた第13集団軍も農業を営んでいて、全く準備していなかった。7月中旬から北上。40軍が安東、38軍が開原、鉄嶺、39軍が遼陽、海城に展開する。
42軍は黒竜江省チチハルで農業をしていたが、辺防軍に編入され、通化へ。
8月中旬には、26万の部隊が集結した。
ホワイティングによると、林彪の第4野戦軍6万は7月に海南島などから北上し、元来のホームグラウンドの東北に展開し、第3野戦軍3万が8月に山東に到着したとある。しかし、実際は前者は7月中旬から8月中旬、後者(第3野戦軍第9集団軍の第20、26,27軍)の山東到着は10月で、それまで空白である。
引き続きその真実を解明してみたい。
第3章の第2節 「鴨緑江北岸への大軍集結(7月下旬)」を紹介する。
今まで解明されていなかった東北辺防軍の集結過程については、回想録、および2000年の『抗美援朝戦争史』で裏付けられる。
7月13日の中央指導部決定は、大軍区首脳にだけ通達されていた。
杜平の回想を引用している。
開戦まで、具体的指示がなく、河南省にいた第13集団軍も農業を営んでいて、全く準備していなかった。7月中旬から北上。40軍が安東、38軍が開原、鉄嶺、39軍が遼陽、海城に展開する。
42軍は黒竜江省チチハルで農業をしていたが、辺防軍に編入され、通化へ。
8月中旬には、26万の部隊が集結した。
ホワイティングによると、林彪の第4野戦軍6万は7月に海南島などから北上し、元来のホームグラウンドの東北に展開し、第3野戦軍3万が8月に山東に到着したとある。しかし、実際は前者は7月中旬から8月中旬、後者(第3野戦軍第9集団軍の第20、26,27軍)の山東到着は10月で、それまで空白である。
タグ:朝鮮戦争 中国 ソ連
朝鮮戦争の実際6ー2 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その6-2)東北辺防軍の創設と招集 [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際6ー2 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その6-2)東北辺防軍の創設と招集
第3章 東北辺防軍の創設と召集から、第1節軍事戦略の変更 その2 を紹介する。
国防軍事会議 7月7日
周恩来(軍事委副主席)が召集し、朱徳解放軍総司令官、聶栄臻総参謀長代理、林彪第4野戦軍兼中南軍区司令官など出席。
周は、東北辺防軍創設を力説した。そして、義勇兵の服と旗を使用することとし、随時鴨緑江を渡河することを決めた。
朱は、文稿を引用し、5項目の決定事項を述べている。
10日に第2回が開かれ、13日、中央軍事委員会名で発布された。
朱は、このときは、鴨緑江を渡ることの政治的、外交的な意味を検討する余裕がなかったかもしれないとしている。
そして、8月以降、首脳部内で、国境を越えるべきかどうかが論争の焦点となった。
東北辺防軍
司令部は司令官兼政治委員 栗裕。しかし、病気のため赴任せず。回避したという説も浮上。8月に高崗を司令官として兼任させた。
第13集団軍(38、39、40軍)等で25万5千人。
9月6日に中南軍区から50軍を編入。
林彪の役割
朱によると、7月7日から、政治的軍事的方針が変化し、台湾進攻作戦の正副司令官栗裕と簫勁光を東北にあてることとなった。また、米軍との交戦を念頭に置き、韓国軍の戦闘力を軽視した。林彪に軍事作戦準備の大きな権限が与えられた。8月初めに、北京の中央軍委に移動したのである。
しかし、林彪の役割は今までの中国軍事史で黙殺されているそうだ。また、10月初めに林彪が義勇軍総司令官の就任を拒否し、彭徳懐が召還されたことも、波乱の一端を見せている。
朱は、毛沢東が参加していなかった理由を論じている。
そして、この段階で、政治局が参戦の可否を論じていないことを指摘し、しかし10月の参戦決定プロセスは8月から始まっていたとした。
第3章 東北辺防軍の創設と召集から、第1節軍事戦略の変更 その2 を紹介する。
国防軍事会議 7月7日
周恩来(軍事委副主席)が召集し、朱徳解放軍総司令官、聶栄臻総参謀長代理、林彪第4野戦軍兼中南軍区司令官など出席。
周は、東北辺防軍創設を力説した。そして、義勇兵の服と旗を使用することとし、随時鴨緑江を渡河することを決めた。
朱は、文稿を引用し、5項目の決定事項を述べている。
10日に第2回が開かれ、13日、中央軍事委員会名で発布された。
朱は、このときは、鴨緑江を渡ることの政治的、外交的な意味を検討する余裕がなかったかもしれないとしている。
そして、8月以降、首脳部内で、国境を越えるべきかどうかが論争の焦点となった。
東北辺防軍
司令部は司令官兼政治委員 栗裕。しかし、病気のため赴任せず。回避したという説も浮上。8月に高崗を司令官として兼任させた。
第13集団軍(38、39、40軍)等で25万5千人。
9月6日に中南軍区から50軍を編入。
林彪の役割
朱によると、7月7日から、政治的軍事的方針が変化し、台湾進攻作戦の正副司令官栗裕と簫勁光を東北にあてることとなった。また、米軍との交戦を念頭に置き、韓国軍の戦闘力を軽視した。林彪に軍事作戦準備の大きな権限が与えられた。8月初めに、北京の中央軍委に移動したのである。
しかし、林彪の役割は今までの中国軍事史で黙殺されているそうだ。また、10月初めに林彪が義勇軍総司令官の就任を拒否し、彭徳懐が召還されたことも、波乱の一端を見せている。
朱は、毛沢東が参加していなかった理由を論じている。
そして、この段階で、政治局が参戦の可否を論じていないことを指摘し、しかし10月の参戦決定プロセスは8月から始まっていたとした。
タグ:朝鮮戦争 中国 ソ連
陸奥宗光の蹇蹇録 その10-2)日清戦争外交秘録 牙山および豊島の戦闘 [明治の戦争]
陸奥宗光の蹇蹇録 その10-2)日清戦争外交秘録 牙山および豊島の戦闘
引き続き、第10章を紹介する。豊島の開戦が国際法に違反しないことが明確に論じられている。とすると、先のNHKのドラマ「坂の上の雲」の描き方が気になる。司馬遼太郎の原作でも、済遠が先に実弾を発射したとあるし、以下に見るように陸奥宗光の蹇蹇録でもそのように書いてある。浪速が最初に、しかも猶予なく実弾を発射したというのは事実と違うのだが、ドラマではそのように見えた。実際は発砲まで4時間かけており、何度も小舟で出向いて交渉しようとしているし、外国人を避難させている。
なお、このほか興味深かったのは、ドイツ人が高陞号で清国の指導をしていたことである。ドイツ人は日中戦争でも同じような行動を取っているので、印象的だった。
豊島の海戦は7月25日である。この戦いは清国軍艦からまず我が軍艦を襲撃したことに始まった。現在ではその勝利、曲直は明白で、戦時国際法に問われる恐れもないが、勝利の知らせと同時に受け取った報告の中で、日本の官民ともに驚いたのは、我が軍艦浪速が英国の旗章を掲げた一隻の運送船を砲撃し、ついにこれを沈没させたという説を伝えたことだ。ここで、果たして軍艦が中立国の旗章に対して無礼を働いたかを、くわしく見ていく必要がある。
豊島の海戦は、7月25日午前7時と8時の間、我が軍艦秋津洲、吉野、浪速と清国軍艦済遠、広乙との間の戦闘であり、済遠より先に戦端を開いた。しかしその結果、済遠は敗走し、広乙は逃れて座礁し、操江は我が海軍の捕獲するところとなり、9時頃浪速が敵艦を追襲する途中、ショパイオル島の近くで、清国軍隊を乗せ英国旗章を掲げた運送船高陞号に出会った。この時すでに戦端は開かれており、交戦者の権利として運送船を捜索しえたし、ある場合には強制手段を用いることが出来た。浪速は最初に信号で停戦を命じたが、高陞号船長は直ちにこれに応じ、その他浪速の下した命令に対し、一つも背くところはなかった。浪速は2回もその短艇を出して、その船長を説得したが、目的を達せられないのを見て、ついに最後の信号を掲げ、当該船の欧米人をして、各自活路を求めることができるよう便宜を与えた後、これを砲撃して沈没させたのは、まさに午後0時40分であった。ほとんど4時間を経過するまで、浪速艦長が最後の手段を決行しなかったのは、浪速艦長の注意が精密周到であることが分かり、国際公法上、何ら間違いのないことを証明するものだが、しかしこれは後日続々と受信した詳報によって初めて明瞭になった事実であった。当初、豊島の海戦中に英国の旗章を掲げた運送船を砲撃し沈没させたとの報告に接した時は、この不慮の出来事で日英両国の間に一大紛争が起こると、何人もの人が驚愕した。すぐさま英国に対して十分満足な説明をせねばならないとの意見が多く、在英国青木公使から7月31日に「英国政府からの要求を待たず、進んで相当の満足を与えるようにしたい。もし当該船に乗っていたドイツ人士官が死亡していたら、これまた同じ処分があるべきだ」との電報があった(この時、ベルリンでは船名も、ハンネッケンの姓名も明らかでなかったと見える)。
8月3日、英国外務大臣が、高陞号事件に関して、公然と青木公使に書簡を送った。「日本海軍将校の処置により生じた英国臣民の生命、財産の損害に対しては、日本政府にその責任があるものと認定する。(中略)詳細の報告を得てから英国政府の意見を確定し、再照会する」と電報してきた。
ロンドンでも当時その詳細な報告が得られていなかったが、東京でもそうだった。進んで補償を申し出るのは早計と判断し、東京駐在英国臨時代理公使を招いて、「この悲嘆すべき事件に対して、十分顛末を審査した上で、もし不幸にも帝国軍艦の所為が当を失したことを発見すれば、帝国政府は相当な補償をする」ことを述べ、同公使に直ちに本国へ電報させた。
その後、各地より確報が到着し、また、我が軍艦により救出させられた高陞号の船長以下の外国人は、すべて佐世保鎮守府に到着したので、政府は7月29日に法制局長官末松謙澄を鎮守府に派遣し、その外国人たちから親しく事実聴取をさせた。末松が取り締まり結果を私に報告した概要を挙げると、
沈没船は高陞と号し、英国船籍に属し、持ち主は印度支那汽船会社である。この船には清国の砲、歩将卒が合計1100人乗り込み、その他多数の大砲弾薬を搭載し、他に旅客の名義でドイツ人、フォン・ハンネッケンがいた。この船は清国政府の雇い船となり、大沽(タークー)より清国軍兵とハンネッケンを乗せて牙山に揚陸させる命令を受けていた。大沽出航は7月23日である。船長によると、その前後に清国軍隊の運送船8隻が、それぞれ命令書を受けて大沽を発し、高陞号も封書命令を持っていたと思われる。高陞号は7月27日に豊島付近で、日本軍艦と清国軍艦との間ですでに開戦して2時間を経て、軍艦浪速に出会った。船長は、すべて浪速の命令に従うことを承諾したが、船内の清国軍官がこれを許さず、ゆえにこの船長はすべての自由を妨げられた。浪速の艦長は、このあわただしい中にも、高陞号が英国旗章を掲げているため、談判往復に長時間を費やしたことは、注意周到だったといえる。また、高陞号の持ち主と清国政府との間にいかなる関係があったか、未だ詳細を得られないが、通常の関係にとどまると思えない。私の切実な質問に、その船長が書面に記したところでは、船は清国政府が雇用し、もし航海中に開戦に及ぶ時は、直ちに同船を清国政府に引き渡し、乗組員外国人はすべてその船を去るべきとの契約があることが明白であるという。
そして末松はこの報告書の末文で、以上は私の調査した事項の要領である。関係書類を別に閣下に呈すとした。彼は、国際法に反することはなかったとし、これは次々と海軍当局者から受けた情報と符合した。要点を列記すると、
(1)浪速は日清の戦端が開かれたあとに高陞号に交戦者の権利を行使した。
(2)高陞号は元来英国の船籍であるが、その事変の半ばから、船長は全くその職務を行う自由を奪われ、その船は清国軍官の支配するところとなり、強いて言えば英国船高陞号は清国軍官に奪われていた。
(3)この船の持ち主は、あらかじめ清国政府と、開戦に及べば本船を清国に引き渡すと契約していた。ことに出航の時に封書命令を与えていたなら、両国の交戦を予期したに違いない。
以上の理由があれば、日本政府は、乗組員の生命財産に対して賠償の責務はなく、交戦者が当然の権利を行使したと言える。事情がこのように明らかなので、パゼットに対しても、青木公使に対しても、詳細な確報を与え、逐一英国政府に説明させた。英国政府も、事情が明白になるに従って、何ら苦情も言い出さず、争議は中止の姿となったが、英国の世論とくに新聞各紙は、容易に不問にせず、日本に謝罪させるべきとか、日本海軍の行為は戦争の始まる前の暴行であるとか、賠償すべきと家の報道した。しかし、当時英国の公法学者の大家であるホルランドとウェストレーキの両博士が、初めから浪速の行動は不当ではないと、世論とことにする論述をしていて、英国の雑誌が両博士を攻撃していた。ホルランド博士は、以下のように論じていた。
高陞号は、交戦国の一方のために運送に従事している中立国の船であり、この船自身がそれを認識している。この位置にある高陞号には二重の義務がある。
(1)隔離船として観察すれば、高陞号は進行を停止し、臨検を受け、日本の捕獲審検所において審査を受けるために、送致されるべきであった。捕獲に従事すべき日本艦の士官が、高陞号の船内に侵入できない場合、日本海軍の長官が高陞号に事故の命令に服従させるために必要が強制力を使用したのは、当を得ていた。
(2)陸上の清国軍に援兵を送致することに関係した運送船として、あるいは軍艦として観察すると、高陞号は明らかに敵対的行動の一部を表示するか、そう扱われる行動を示したのであり、日本は必要な全力を使用してこの船を防止し、目的を達する権利がある。敵軍の軍兵を運送した中立国の船を拿捕し、防止する強制力は、不当といえない。救助された船長以下も、適当の処分によって放免されているので、中立国の権利上の侵害があったっとは言えない。故に我が政府(英国)は日本に謝罪させる理由もないし、高陞号持ち主、死亡した欧州人の親族も、賠償を請求する権利がない。
さすがに国際公法学の巨匠である。この論旨が確実なのは明らかである。すると、英国外務大臣キンバレー伯爵は、同船の所有会社に対し、賠償を求めることは不可であるとの勧告をし、英国世論も緩やかとなり、一時ほとんど日英両国の間に重大な外交関係をもたらそうとした出来事も、無事に収束していった。豊島の開戦は、交戦国の清国に対しても、中立国英国に対しても、日本海軍は戦時国際公法の既定を逸脱していないことを世界に発信したことは、実に名誉であった。
参考 本日の坂の上の雲 いよいよ日清戦争
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/30475883.html
引き続き、第10章を紹介する。豊島の開戦が国際法に違反しないことが明確に論じられている。とすると、先のNHKのドラマ「坂の上の雲」の描き方が気になる。司馬遼太郎の原作でも、済遠が先に実弾を発射したとあるし、以下に見るように陸奥宗光の蹇蹇録でもそのように書いてある。浪速が最初に、しかも猶予なく実弾を発射したというのは事実と違うのだが、ドラマではそのように見えた。実際は発砲まで4時間かけており、何度も小舟で出向いて交渉しようとしているし、外国人を避難させている。
なお、このほか興味深かったのは、ドイツ人が高陞号で清国の指導をしていたことである。ドイツ人は日中戦争でも同じような行動を取っているので、印象的だった。
豊島の海戦は7月25日である。この戦いは清国軍艦からまず我が軍艦を襲撃したことに始まった。現在ではその勝利、曲直は明白で、戦時国際法に問われる恐れもないが、勝利の知らせと同時に受け取った報告の中で、日本の官民ともに驚いたのは、我が軍艦浪速が英国の旗章を掲げた一隻の運送船を砲撃し、ついにこれを沈没させたという説を伝えたことだ。ここで、果たして軍艦が中立国の旗章に対して無礼を働いたかを、くわしく見ていく必要がある。
豊島の海戦は、7月25日午前7時と8時の間、我が軍艦秋津洲、吉野、浪速と清国軍艦済遠、広乙との間の戦闘であり、済遠より先に戦端を開いた。しかしその結果、済遠は敗走し、広乙は逃れて座礁し、操江は我が海軍の捕獲するところとなり、9時頃浪速が敵艦を追襲する途中、ショパイオル島の近くで、清国軍隊を乗せ英国旗章を掲げた運送船高陞号に出会った。この時すでに戦端は開かれており、交戦者の権利として運送船を捜索しえたし、ある場合には強制手段を用いることが出来た。浪速は最初に信号で停戦を命じたが、高陞号船長は直ちにこれに応じ、その他浪速の下した命令に対し、一つも背くところはなかった。浪速は2回もその短艇を出して、その船長を説得したが、目的を達せられないのを見て、ついに最後の信号を掲げ、当該船の欧米人をして、各自活路を求めることができるよう便宜を与えた後、これを砲撃して沈没させたのは、まさに午後0時40分であった。ほとんど4時間を経過するまで、浪速艦長が最後の手段を決行しなかったのは、浪速艦長の注意が精密周到であることが分かり、国際公法上、何ら間違いのないことを証明するものだが、しかしこれは後日続々と受信した詳報によって初めて明瞭になった事実であった。当初、豊島の海戦中に英国の旗章を掲げた運送船を砲撃し沈没させたとの報告に接した時は、この不慮の出来事で日英両国の間に一大紛争が起こると、何人もの人が驚愕した。すぐさま英国に対して十分満足な説明をせねばならないとの意見が多く、在英国青木公使から7月31日に「英国政府からの要求を待たず、進んで相当の満足を与えるようにしたい。もし当該船に乗っていたドイツ人士官が死亡していたら、これまた同じ処分があるべきだ」との電報があった(この時、ベルリンでは船名も、ハンネッケンの姓名も明らかでなかったと見える)。
8月3日、英国外務大臣が、高陞号事件に関して、公然と青木公使に書簡を送った。「日本海軍将校の処置により生じた英国臣民の生命、財産の損害に対しては、日本政府にその責任があるものと認定する。(中略)詳細の報告を得てから英国政府の意見を確定し、再照会する」と電報してきた。
ロンドンでも当時その詳細な報告が得られていなかったが、東京でもそうだった。進んで補償を申し出るのは早計と判断し、東京駐在英国臨時代理公使を招いて、「この悲嘆すべき事件に対して、十分顛末を審査した上で、もし不幸にも帝国軍艦の所為が当を失したことを発見すれば、帝国政府は相当な補償をする」ことを述べ、同公使に直ちに本国へ電報させた。
その後、各地より確報が到着し、また、我が軍艦により救出させられた高陞号の船長以下の外国人は、すべて佐世保鎮守府に到着したので、政府は7月29日に法制局長官末松謙澄を鎮守府に派遣し、その外国人たちから親しく事実聴取をさせた。末松が取り締まり結果を私に報告した概要を挙げると、
沈没船は高陞と号し、英国船籍に属し、持ち主は印度支那汽船会社である。この船には清国の砲、歩将卒が合計1100人乗り込み、その他多数の大砲弾薬を搭載し、他に旅客の名義でドイツ人、フォン・ハンネッケンがいた。この船は清国政府の雇い船となり、大沽(タークー)より清国軍兵とハンネッケンを乗せて牙山に揚陸させる命令を受けていた。大沽出航は7月23日である。船長によると、その前後に清国軍隊の運送船8隻が、それぞれ命令書を受けて大沽を発し、高陞号も封書命令を持っていたと思われる。高陞号は7月27日に豊島付近で、日本軍艦と清国軍艦との間ですでに開戦して2時間を経て、軍艦浪速に出会った。船長は、すべて浪速の命令に従うことを承諾したが、船内の清国軍官がこれを許さず、ゆえにこの船長はすべての自由を妨げられた。浪速の艦長は、このあわただしい中にも、高陞号が英国旗章を掲げているため、談判往復に長時間を費やしたことは、注意周到だったといえる。また、高陞号の持ち主と清国政府との間にいかなる関係があったか、未だ詳細を得られないが、通常の関係にとどまると思えない。私の切実な質問に、その船長が書面に記したところでは、船は清国政府が雇用し、もし航海中に開戦に及ぶ時は、直ちに同船を清国政府に引き渡し、乗組員外国人はすべてその船を去るべきとの契約があることが明白であるという。
そして末松はこの報告書の末文で、以上は私の調査した事項の要領である。関係書類を別に閣下に呈すとした。彼は、国際法に反することはなかったとし、これは次々と海軍当局者から受けた情報と符合した。要点を列記すると、
(1)浪速は日清の戦端が開かれたあとに高陞号に交戦者の権利を行使した。
(2)高陞号は元来英国の船籍であるが、その事変の半ばから、船長は全くその職務を行う自由を奪われ、その船は清国軍官の支配するところとなり、強いて言えば英国船高陞号は清国軍官に奪われていた。
(3)この船の持ち主は、あらかじめ清国政府と、開戦に及べば本船を清国に引き渡すと契約していた。ことに出航の時に封書命令を与えていたなら、両国の交戦を予期したに違いない。
以上の理由があれば、日本政府は、乗組員の生命財産に対して賠償の責務はなく、交戦者が当然の権利を行使したと言える。事情がこのように明らかなので、パゼットに対しても、青木公使に対しても、詳細な確報を与え、逐一英国政府に説明させた。英国政府も、事情が明白になるに従って、何ら苦情も言い出さず、争議は中止の姿となったが、英国の世論とくに新聞各紙は、容易に不問にせず、日本に謝罪させるべきとか、日本海軍の行為は戦争の始まる前の暴行であるとか、賠償すべきと家の報道した。しかし、当時英国の公法学者の大家であるホルランドとウェストレーキの両博士が、初めから浪速の行動は不当ではないと、世論とことにする論述をしていて、英国の雑誌が両博士を攻撃していた。ホルランド博士は、以下のように論じていた。
高陞号は、交戦国の一方のために運送に従事している中立国の船であり、この船自身がそれを認識している。この位置にある高陞号には二重の義務がある。
(1)隔離船として観察すれば、高陞号は進行を停止し、臨検を受け、日本の捕獲審検所において審査を受けるために、送致されるべきであった。捕獲に従事すべき日本艦の士官が、高陞号の船内に侵入できない場合、日本海軍の長官が高陞号に事故の命令に服従させるために必要が強制力を使用したのは、当を得ていた。
(2)陸上の清国軍に援兵を送致することに関係した運送船として、あるいは軍艦として観察すると、高陞号は明らかに敵対的行動の一部を表示するか、そう扱われる行動を示したのであり、日本は必要な全力を使用してこの船を防止し、目的を達する権利がある。敵軍の軍兵を運送した中立国の船を拿捕し、防止する強制力は、不当といえない。救助された船長以下も、適当の処分によって放免されているので、中立国の権利上の侵害があったっとは言えない。故に我が政府(英国)は日本に謝罪させる理由もないし、高陞号持ち主、死亡した欧州人の親族も、賠償を請求する権利がない。
さすがに国際公法学の巨匠である。この論旨が確実なのは明らかである。すると、英国外務大臣キンバレー伯爵は、同船の所有会社に対し、賠償を求めることは不可であるとの勧告をし、英国世論も緩やかとなり、一時ほとんど日英両国の間に重大な外交関係をもたらそうとした出来事も、無事に収束していった。豊島の開戦は、交戦国の清国に対しても、中立国英国に対しても、日本海軍は戦時国際公法の既定を逸脱していないことを世界に発信したことは、実に名誉であった。
参考 本日の坂の上の雲 いよいよ日清戦争
http://blogs.yahoo.co.jp/nakamushyh/30475883.html
タグ:歴史 陸奥宗光
陸奥宗光の蹇蹇録 その10-1)日清戦争外交秘録 牙山および豊島の戦闘 [明治の戦争]
陸奥宗光の蹇蹇録 その10-1)日清戦争外交秘録 牙山および豊島の戦闘
第10章 牙山および豊島の戦闘 の前半を要約する。
征清の役の戦闘数は多いが、牙山の戦いのみが外交が先駆となって戦端が開かれ、豊島の戦いのみが第3国に外交上の葛藤を生もうとした。
牙山の戦いの始まりは、表面上は我が国が韓国政府(韓廷)から依頼を受け、韓国のために清国軍を国境外に駆逐するために起こったが、実際は、日清両国の間の問題であった、清韓宗属論争が主因であることは争えない。
そもそも、清国が我が国に朝鮮出兵を行文知照してきたとき、保護属邦の文字があったので、これによって争議を提起しようとしたが、当時の内閣の同僚(伊藤のこと)は、これによって外交的争議とすることに同意しなかった。その理由は、清韓宗属問題は歴史が古く、新しく争議の根拠とするには陳腐爛熟に属し、清国政府に戦争の機会を促すに他ならず、第三者の欧米各国がことさら古いことを取り上げたと批判するということにあった。一応の理があるため、当時汪鳳藻へ回答した公文には「帝国政府は未だかつて朝鮮国を帰国の属邦と認めていない」と抗議にとどめた。
しかし、この抗議にすら、李鴻章は等閑にできなかったとみえ、李が汪に電訓したのを聞くに、「属邦を保護してきた旧例は各国の知るところである。たとえ日本が朝鮮を中国の属邦と認めなくても、自分の法を行うことに、自分の例を破ることはなく、日本が認めると否とは問うに及ばない」とあったという。
これは必ずしも架空の慰みではない。日本が明治9年に朝鮮と修好条約を締結したあと、欧米各国が相次いで朝鮮と条約を締結した。いずれの文面でも、朝鮮を一独立国と認めているが、当時清国は朝鮮国王に迫り、さらに締結各国政府に向かって、弁明的公文を発せしめ、陰において清韓宗属関係を保持した。(漢文 中国の属邦であることが5行にわたり述べられている)。我が国にはこのような公文は送られてきていない。開国年が光緒何年と、ことさら清暦を記しているのをみると、清国政府が原稿を渡したに違いない。各国も抗議していない。李鴻章が朝鮮が清国の属邦ということを列国が承知していると考えているのも無理はない。
さらに、1885年に英国が朝鮮領内の巨文島を占領したことがある。当時、英国、ロシア、清、韓国の4カ国の間で、複雑な関係が生じ、紛糾した後、英露両国はその要求する保証条件を清国から得ることで、収束していった。この重大な外国問題を解決する間に、英露両国は、眼中に朝鮮がないかのようで、常に清国だけを相手にしていた。
英国が巨文島を占領したという報道を知るや、ロシアは激しく異議を唱え、清韓両国は英国に抗議するとともに、ロシアからの談判もあり、英国が清国政府に「ロシアがもし英国が軍隊を巨文島から撤退したら、将来何の事情があっても朝鮮のいかなる地方をも占領しない」と約束したので、清国が英国にこれを伝え、英国は巨文島を朝鮮に引き渡すのでなく、清国に引き渡し、朝鮮官僚を立ち会わせただけだった。本年、遼東半島の問題が起こった後、ロシアがいつ朝鮮問題を提起してくるかと思い、在英国加藤公使に電訓して、英国政府に向かい、今日においても右ロシアの約束を有効と認めるか質問させたところ、英国政府はむろん有効な約束であると回答した。
それ故、英露両国は、暗に清韓宗属の関係を黙認して、朝鮮との交渉をもっぱら清国に重きを置いているのは争えない。英国は、それが自己の利益と見たに相違なく、今回周旋した時も、清国のためにこの宗属関係を破らないように努力した形跡がある。
以上の次第なので、今更宗属問題を提起するのは陳腐爛熟であろう。しかし、朝鮮における日清両国の関係は、衝突が避けられない事態になった。大鳥公使は、宗属問題にかりて破綻を促すしか策がないと主張した。しかし、未だ内閣の議論が確定しないので、大鳥公使が清国使臣にむかって直ちに提起することは猶予させた。しかし、この頃形勢が挽回できない時期に達し、同公使は最終的照会で、この提起に至った。ただし、先の訓令に違反することを避けるため、在京城清国使臣にむかってでなく、朝鮮政府に向かって汝国は清国の属邦かと詰問するといううまい手段を執った。それなら日韓条約中、朝鮮は自主の国にして日本と平等の権利を保有するとの首位に矛盾するといい、保護属邦の名目で牙山に駐屯する清国政府は、すなわち日韓条約を蹂躙すると結論し、ついに7月23日の事変に乗じ、韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐するよう委託を強取するに至った。畢竟、日清両国の交戦は、清韓宗属関係に起因した外交問題が先駆となり、ついに砲火を開くに至った。
内閣の同僚や主だった人も、もはや日清両国の間に破綻を促さざるを得ないという意見に格別の異議はなかったが、根拠になる主義、方法は議論が多岐にわたった。大鳥公使の建議のような高手的外交政略は、(第一に)第3者たる欧米列強に、ことさらに無名の戦争を挑発する位置を取っているという非難を起こさせるのみならず、かつて外務大臣がロシア政府に、日本政府は自ら交戦を挑まないとした言質に背く恐れがあり、(第二に)いまだ清国から朝鮮に向かい大兵を増発したという確報に接しておらず、牙山の清軍もいまだ京城に進入する形跡がなく、(第三に)牙山の清軍を進撃するには、かならず韓廷の委託を待たねばならない、という議論で、私もあえて異議を入れなかったが、切迫しており、他の良案もなく、さきに大鳥公使に「今は断然たる処置を促す必要がある。何らの口実を使用するもさしつかえなし。実際の運動を始むべし」と電訓した。
同公使は、どの口実を選ぶのも彼の自由になり、すでに方針を実行したかも知れない(7月12日に電訓し、翌13日、外務省参事官本野一郎を韓地に派遣し、本野をして電訓の趣旨を説明させ、一切の責任は自分にあると伝えさせた)。
私は、韓地での成り行きで臨機応変に措置を施すしかないと主張したが、なおも内閣同僚は、このような重要な事態に対処するには、十分慎重にせねばならないとし、大鳥公使に電訓して警戒させるべきとの説が多かった。それに従い、19日に「貴官が相当と認める手段を執られるべきだが、他の外国との紛争を生じさせないよう注意すべき。軍隊で応急、感情を囲むのは得策でないので、決行しないよう望む」と電訓した。
しかし、もはや形勢は方針を変えられない時期に達していた。ちょうど電訓を発した19日に、大鳥公使は朝鮮政府に対して、「保護属邦」の名をもって清軍が駐在するのは朝鮮の独立を侵害するので、国外に駆逐すべきと要求し、22日を期してこれに確答すべきと迫ったと、私に電報してきた。そして、満足な回答をしなければ、本使は同政府に迫り、大改革を行わせるつもりだと附言してあった。
まもなく、23日の来電では、朝鮮政府は不満足な回答をした、やむをえず王宮を囲む強手処分を施したいといい、午後の来電では、日韓両兵の争闘はおよそ15分で修了し、今は静かになっている。本使は王宮におもむき、大院君自ら本使を迎え、国王からすべて国政と改革の事業を専任されたという旨を述べ、本使と協議することを約束したという電報が続々と来た。
その後数日しないうちに、大鳥公使、大島旅団長より、牙山、成歓の戦勝を電報してきた。大鳥公使が使用した高手的外交手段もその功を奏し、牙山戦勝の結果、京城付近にはもはや一個の清兵をみない、朝鮮政府は帝国手中のものになったとの快報が国内に伝播し、欧米各国政府も日清の交戦があった今日となっては、容易に干渉する余地がなく、暫く傍観の地位になったので、我が軍から清軍を進撃することの得失を述べた諸議論も、歓声の中に埋没し、ともにしばらくほっとした。
豊島の戦いは牙山の陸戦に先立つこと数日だったが、海陸通報の便利を異にし、豊島戦勝の佳報が東京に達したのは牙山戦勝の喜報に遅れた。我が国民は一層壮快の念を起こし、歓声を発した。というのは、海軍の勝敗は疑念をいだいていたからである。一躍、強大な感覚を生じ、ほとんど狂喜するに至ったのもしかたない。
初め、我が政府が東京駐在英国公使を経て、清国に対し、わが最終照会を発し、5日を限度の回答を要求し、かつ、もしその間清国より朝鮮へ兵隊を増派するの挙があれば、日本政府はこれを威嚇的運動と認めると断言した当時、西郷海軍大臣は私に、もし日本艦隊が最終期限後に清国艦隊に出会うか、清国が軍隊増派した事実があれば、直ちに戦端を開いても外交上何らの故障もないかと問うたことがある。私は、外交上の順序としては、なんら差し支えないと答えた。私が本邦駐在英国代理公使パゼットを招き、最終的覚え書きを北京駐在英国公使に伝達することを求めたのは、19日であり、豊島の海戦は25日である。特に、この戦いは清国軍艦からまず我が軍艦を襲撃したことに始まった。
つづく
第10章 牙山および豊島の戦闘 の前半を要約する。
征清の役の戦闘数は多いが、牙山の戦いのみが外交が先駆となって戦端が開かれ、豊島の戦いのみが第3国に外交上の葛藤を生もうとした。
牙山の戦いの始まりは、表面上は我が国が韓国政府(韓廷)から依頼を受け、韓国のために清国軍を国境外に駆逐するために起こったが、実際は、日清両国の間の問題であった、清韓宗属論争が主因であることは争えない。
そもそも、清国が我が国に朝鮮出兵を行文知照してきたとき、保護属邦の文字があったので、これによって争議を提起しようとしたが、当時の内閣の同僚(伊藤のこと)は、これによって外交的争議とすることに同意しなかった。その理由は、清韓宗属問題は歴史が古く、新しく争議の根拠とするには陳腐爛熟に属し、清国政府に戦争の機会を促すに他ならず、第三者の欧米各国がことさら古いことを取り上げたと批判するということにあった。一応の理があるため、当時汪鳳藻へ回答した公文には「帝国政府は未だかつて朝鮮国を帰国の属邦と認めていない」と抗議にとどめた。
しかし、この抗議にすら、李鴻章は等閑にできなかったとみえ、李が汪に電訓したのを聞くに、「属邦を保護してきた旧例は各国の知るところである。たとえ日本が朝鮮を中国の属邦と認めなくても、自分の法を行うことに、自分の例を破ることはなく、日本が認めると否とは問うに及ばない」とあったという。
これは必ずしも架空の慰みではない。日本が明治9年に朝鮮と修好条約を締結したあと、欧米各国が相次いで朝鮮と条約を締結した。いずれの文面でも、朝鮮を一独立国と認めているが、当時清国は朝鮮国王に迫り、さらに締結各国政府に向かって、弁明的公文を発せしめ、陰において清韓宗属関係を保持した。(漢文 中国の属邦であることが5行にわたり述べられている)。我が国にはこのような公文は送られてきていない。開国年が光緒何年と、ことさら清暦を記しているのをみると、清国政府が原稿を渡したに違いない。各国も抗議していない。李鴻章が朝鮮が清国の属邦ということを列国が承知していると考えているのも無理はない。
さらに、1885年に英国が朝鮮領内の巨文島を占領したことがある。当時、英国、ロシア、清、韓国の4カ国の間で、複雑な関係が生じ、紛糾した後、英露両国はその要求する保証条件を清国から得ることで、収束していった。この重大な外国問題を解決する間に、英露両国は、眼中に朝鮮がないかのようで、常に清国だけを相手にしていた。
英国が巨文島を占領したという報道を知るや、ロシアは激しく異議を唱え、清韓両国は英国に抗議するとともに、ロシアからの談判もあり、英国が清国政府に「ロシアがもし英国が軍隊を巨文島から撤退したら、将来何の事情があっても朝鮮のいかなる地方をも占領しない」と約束したので、清国が英国にこれを伝え、英国は巨文島を朝鮮に引き渡すのでなく、清国に引き渡し、朝鮮官僚を立ち会わせただけだった。本年、遼東半島の問題が起こった後、ロシアがいつ朝鮮問題を提起してくるかと思い、在英国加藤公使に電訓して、英国政府に向かい、今日においても右ロシアの約束を有効と認めるか質問させたところ、英国政府はむろん有効な約束であると回答した。
それ故、英露両国は、暗に清韓宗属の関係を黙認して、朝鮮との交渉をもっぱら清国に重きを置いているのは争えない。英国は、それが自己の利益と見たに相違なく、今回周旋した時も、清国のためにこの宗属関係を破らないように努力した形跡がある。
以上の次第なので、今更宗属問題を提起するのは陳腐爛熟であろう。しかし、朝鮮における日清両国の関係は、衝突が避けられない事態になった。大鳥公使は、宗属問題にかりて破綻を促すしか策がないと主張した。しかし、未だ内閣の議論が確定しないので、大鳥公使が清国使臣にむかって直ちに提起することは猶予させた。しかし、この頃形勢が挽回できない時期に達し、同公使は最終的照会で、この提起に至った。ただし、先の訓令に違反することを避けるため、在京城清国使臣にむかってでなく、朝鮮政府に向かって汝国は清国の属邦かと詰問するといううまい手段を執った。それなら日韓条約中、朝鮮は自主の国にして日本と平等の権利を保有するとの首位に矛盾するといい、保護属邦の名目で牙山に駐屯する清国政府は、すなわち日韓条約を蹂躙すると結論し、ついに7月23日の事変に乗じ、韓廷より牙山にある清国軍隊を国外に駆逐するよう委託を強取するに至った。畢竟、日清両国の交戦は、清韓宗属関係に起因した外交問題が先駆となり、ついに砲火を開くに至った。
内閣の同僚や主だった人も、もはや日清両国の間に破綻を促さざるを得ないという意見に格別の異議はなかったが、根拠になる主義、方法は議論が多岐にわたった。大鳥公使の建議のような高手的外交政略は、(第一に)第3者たる欧米列強に、ことさらに無名の戦争を挑発する位置を取っているという非難を起こさせるのみならず、かつて外務大臣がロシア政府に、日本政府は自ら交戦を挑まないとした言質に背く恐れがあり、(第二に)いまだ清国から朝鮮に向かい大兵を増発したという確報に接しておらず、牙山の清軍もいまだ京城に進入する形跡がなく、(第三に)牙山の清軍を進撃するには、かならず韓廷の委託を待たねばならない、という議論で、私もあえて異議を入れなかったが、切迫しており、他の良案もなく、さきに大鳥公使に「今は断然たる処置を促す必要がある。何らの口実を使用するもさしつかえなし。実際の運動を始むべし」と電訓した。
同公使は、どの口実を選ぶのも彼の自由になり、すでに方針を実行したかも知れない(7月12日に電訓し、翌13日、外務省参事官本野一郎を韓地に派遣し、本野をして電訓の趣旨を説明させ、一切の責任は自分にあると伝えさせた)。
私は、韓地での成り行きで臨機応変に措置を施すしかないと主張したが、なおも内閣同僚は、このような重要な事態に対処するには、十分慎重にせねばならないとし、大鳥公使に電訓して警戒させるべきとの説が多かった。それに従い、19日に「貴官が相当と認める手段を執られるべきだが、他の外国との紛争を生じさせないよう注意すべき。軍隊で応急、感情を囲むのは得策でないので、決行しないよう望む」と電訓した。
しかし、もはや形勢は方針を変えられない時期に達していた。ちょうど電訓を発した19日に、大鳥公使は朝鮮政府に対して、「保護属邦」の名をもって清軍が駐在するのは朝鮮の独立を侵害するので、国外に駆逐すべきと要求し、22日を期してこれに確答すべきと迫ったと、私に電報してきた。そして、満足な回答をしなければ、本使は同政府に迫り、大改革を行わせるつもりだと附言してあった。
まもなく、23日の来電では、朝鮮政府は不満足な回答をした、やむをえず王宮を囲む強手処分を施したいといい、午後の来電では、日韓両兵の争闘はおよそ15分で修了し、今は静かになっている。本使は王宮におもむき、大院君自ら本使を迎え、国王からすべて国政と改革の事業を専任されたという旨を述べ、本使と協議することを約束したという電報が続々と来た。
その後数日しないうちに、大鳥公使、大島旅団長より、牙山、成歓の戦勝を電報してきた。大鳥公使が使用した高手的外交手段もその功を奏し、牙山戦勝の結果、京城付近にはもはや一個の清兵をみない、朝鮮政府は帝国手中のものになったとの快報が国内に伝播し、欧米各国政府も日清の交戦があった今日となっては、容易に干渉する余地がなく、暫く傍観の地位になったので、我が軍から清軍を進撃することの得失を述べた諸議論も、歓声の中に埋没し、ともにしばらくほっとした。
豊島の戦いは牙山の陸戦に先立つこと数日だったが、海陸通報の便利を異にし、豊島戦勝の佳報が東京に達したのは牙山戦勝の喜報に遅れた。我が国民は一層壮快の念を起こし、歓声を発した。というのは、海軍の勝敗は疑念をいだいていたからである。一躍、強大な感覚を生じ、ほとんど狂喜するに至ったのもしかたない。
初め、我が政府が東京駐在英国公使を経て、清国に対し、わが最終照会を発し、5日を限度の回答を要求し、かつ、もしその間清国より朝鮮へ兵隊を増派するの挙があれば、日本政府はこれを威嚇的運動と認めると断言した当時、西郷海軍大臣は私に、もし日本艦隊が最終期限後に清国艦隊に出会うか、清国が軍隊増派した事実があれば、直ちに戦端を開いても外交上何らの故障もないかと問うたことがある。私は、外交上の順序としては、なんら差し支えないと答えた。私が本邦駐在英国代理公使パゼットを招き、最終的覚え書きを北京駐在英国公使に伝達することを求めたのは、19日であり、豊島の海戦は25日である。特に、この戦いは清国軍艦からまず我が軍艦を襲撃したことに始まった。
つづく
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朝鮮戦争の実際6 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その6) 東北辺防軍の創設と招集 [昭和後期の戦争]
朝鮮戦争の実際6 朱建栄の「毛沢東の朝鮮戦争」を読む その6) 東北辺防軍の創設と招集
第3章 東北辺防軍の創設と召集から、第1節軍事戦略の変更 を紹介する。
政府第八次会議 6月28日
27日のトルーマン声明を受けて、米国が朝鮮、台湾海峡に介入した時の対策を検討した。当面朝鮮支援の任務は、東北地方政府に任せることとなった。そして、全国規模で米帝国主義の侵略反対運動を決定。
東北地方政府に任せた理由を朱は展開しているが、中国全体が戦渦に巻き込まれるのを防ごうとしたと言えよう。1979年のベトナムとの戦争(自衛反撃戦という)でも、物資支援から軍事作戦の指揮まで広西、雲南の両地方単位で行ったのと同じである。
事実、義勇兵が朝鮮に出動するまでの3ヶ月、後方支援、朝鮮幹部の接待などは高崗がすべて引き受けていたのである。高崗は中央人民政府の副主席を兼任し、毛沢東と頻繁に電信連絡した。
29日から7月初旬までの数日で、中国指導部の情勢認識に変化が現れた。6月30日の陸軍参戦決定、7月1日の米陸軍第24師団の釜山上陸を重視した。
北朝鮮へ情報部員を急派
解放軍総参謀本部は、中央軍事委員会に対し、軍事オブザーバーのピョンヤン派遣を提案、ただちに認可された。30日夜、周恩来は西南軍区情報部長の柴成文を呼び、大使館員の名義、つまりピョンヤン駐在臨時代理大使として派遣することとした。
中央軍委情報部は、武官訓練班から幹部5名を選んだ。彼らは7月10日にピョンヤンに到着した。
即日、北朝鮮外相朴憲永と面会後、金日成と会見。
中国大使館の軍事情報収集が始まり、8月の報告では、金日成が一部戦術の誤りを認めたとの行もある。
7月8日、スターリンは中国に、金日成とコンタクトを取るように求めた。
この背景は、金日成がスターリンにばかり伺いを立てることがある。北朝鮮は、中国を大国主義的と観ていた。ソ連大使館の仲介を必要としていた。そもそも、北は開戦前の準備も中国にさとられないようにしていた。
柴成文の証言では、北朝鮮が中国人を信用していなかった。また、実際の戦場状況を伝えなかった。
中国から帰国した延安派司令官、徐輝、武寧は、中国外交官との接触を制限されていた。
情報部は、連日の空爆を伝えたので、北京側も空軍創設に動き出した。ソ連が装備した朝鮮人民軍の弱点も伝え、第13集団軍が朝鮮介入延期を申し出る根拠となった。
ソ連側との意見交換
開戦後、ソ連と中国の連絡が増えたことは、旧ソ連公開文書から分かる。
周恩来が米軍の意図を中国侵略、ひいては東側との武力衝突と観ていることもソ連に伝えられた(ローシチン 7月1日、2日)。
米軍が38度線を越えたら朝鮮人に変装した部隊を派遣するとも伝えられていた。そのため、東北地方に12万人、3個師団を派遣することも伝えられた。
朝鮮指導部には、米国の介入の可能性を過小評価していたので、49年5月、50年5月の二度にわたって警告したとも伝えられた。
7月5日、スターリンからローシチンを経て周恩来に、義勇軍への空中援護を行うと伝えられた。
13日、ソ連側から、中国軍の9個師団が配備されていれば、124機のジェット戦闘機団で支援すると伝えられた。
朱によると、中ソ間の電報はこれ以外に4つしかない。また、支援も、米軍の仁川上陸で白紙に戻っている。
つまり、中朝も、中ソも連絡が不十分であり、中国側は、北朝鮮、ソ連の甘い判断に不満を募らせていた。
国防軍事会議 7月7日
周恩来(軍事委副主席)が召集し、朱徳解放軍総司令官、聶栄臻総参謀長代理、林彪第4野戦軍兼中南軍区司令官など出席。
周は、東北辺防軍創設を力説した。そして、義勇兵の服と旗を使用することとし、随時鴨緑江を渡河することを決めた。
朱は、文稿を引用し、5項目の決定事項を述べている。
10日に第2回が開かれ、13日、中央軍事委員会名で発布された。
朱は、このときは、鴨緑江を渡ることの政治的、外交的な意味を検討する余裕がなかったかもしれないとしている。
そして、8月以降、首脳部内で、国境を越えるべきかどうかが論争の焦点となった。
東北辺防軍
司令部は司令官兼政治委員 栗裕。しかし、病気のため赴任せず。回避したという説も浮上。8月に高崗を司令官として兼任させた。
第13集団軍(38、39、40軍)等で25万5千人。
9月6日に中南軍区から50軍を編入。
林彪の役割
朱によると、7月7日から、政治的軍事的方針が変化し、台湾進攻作戦の正副司令官栗裕と簫勁光を東北にあてることとなった。また、米軍との交戦を念頭に置き、韓国軍の戦闘力を軽視した。林彪に軍事作戦準備の大きな権限が与えられた。8月初めに、北京の中央軍委に移動したのである。
しかし、林彪の役割は今までの中国軍事史で黙殺されているそうだ。また、10月初めに林彪が義勇軍総司令官の就任を拒否し、彭徳懐が召還されたことも、波乱の一端を見せている。
朱は、毛沢東が参加していなかった理由を論じている。
そして、この段階で、政治局が参戦の可否を論じていないことを指摘し、しかし10月の参戦決定プロセスは8月から始まっていたとした。
第3章 東北辺防軍の創設と召集から、第1節軍事戦略の変更 を紹介する。
政府第八次会議 6月28日
27日のトルーマン声明を受けて、米国が朝鮮、台湾海峡に介入した時の対策を検討した。当面朝鮮支援の任務は、東北地方政府に任せることとなった。そして、全国規模で米帝国主義の侵略反対運動を決定。
東北地方政府に任せた理由を朱は展開しているが、中国全体が戦渦に巻き込まれるのを防ごうとしたと言えよう。1979年のベトナムとの戦争(自衛反撃戦という)でも、物資支援から軍事作戦の指揮まで広西、雲南の両地方単位で行ったのと同じである。
事実、義勇兵が朝鮮に出動するまでの3ヶ月、後方支援、朝鮮幹部の接待などは高崗がすべて引き受けていたのである。高崗は中央人民政府の副主席を兼任し、毛沢東と頻繁に電信連絡した。
29日から7月初旬までの数日で、中国指導部の情勢認識に変化が現れた。6月30日の陸軍参戦決定、7月1日の米陸軍第24師団の釜山上陸を重視した。
北朝鮮へ情報部員を急派
解放軍総参謀本部は、中央軍事委員会に対し、軍事オブザーバーのピョンヤン派遣を提案、ただちに認可された。30日夜、周恩来は西南軍区情報部長の柴成文を呼び、大使館員の名義、つまりピョンヤン駐在臨時代理大使として派遣することとした。
中央軍委情報部は、武官訓練班から幹部5名を選んだ。彼らは7月10日にピョンヤンに到着した。
即日、北朝鮮外相朴憲永と面会後、金日成と会見。
中国大使館の軍事情報収集が始まり、8月の報告では、金日成が一部戦術の誤りを認めたとの行もある。
7月8日、スターリンは中国に、金日成とコンタクトを取るように求めた。
この背景は、金日成がスターリンにばかり伺いを立てることがある。北朝鮮は、中国を大国主義的と観ていた。ソ連大使館の仲介を必要としていた。そもそも、北は開戦前の準備も中国にさとられないようにしていた。
柴成文の証言では、北朝鮮が中国人を信用していなかった。また、実際の戦場状況を伝えなかった。
中国から帰国した延安派司令官、徐輝、武寧は、中国外交官との接触を制限されていた。
情報部は、連日の空爆を伝えたので、北京側も空軍創設に動き出した。ソ連が装備した朝鮮人民軍の弱点も伝え、第13集団軍が朝鮮介入延期を申し出る根拠となった。
ソ連側との意見交換
開戦後、ソ連と中国の連絡が増えたことは、旧ソ連公開文書から分かる。
周恩来が米軍の意図を中国侵略、ひいては東側との武力衝突と観ていることもソ連に伝えられた(ローシチン 7月1日、2日)。
米軍が38度線を越えたら朝鮮人に変装した部隊を派遣するとも伝えられていた。そのため、東北地方に12万人、3個師団を派遣することも伝えられた。
朝鮮指導部には、米国の介入の可能性を過小評価していたので、49年5月、50年5月の二度にわたって警告したとも伝えられた。
7月5日、スターリンからローシチンを経て周恩来に、義勇軍への空中援護を行うと伝えられた。
13日、ソ連側から、中国軍の9個師団が配備されていれば、124機のジェット戦闘機団で支援すると伝えられた。
朱によると、中ソ間の電報はこれ以外に4つしかない。また、支援も、米軍の仁川上陸で白紙に戻っている。
つまり、中朝も、中ソも連絡が不十分であり、中国側は、北朝鮮、ソ連の甘い判断に不満を募らせていた。
国防軍事会議 7月7日
周恩来(軍事委副主席)が召集し、朱徳解放軍総司令官、聶栄臻総参謀長代理、林彪第4野戦軍兼中南軍区司令官など出席。
周は、東北辺防軍創設を力説した。そして、義勇兵の服と旗を使用することとし、随時鴨緑江を渡河することを決めた。
朱は、文稿を引用し、5項目の決定事項を述べている。
10日に第2回が開かれ、13日、中央軍事委員会名で発布された。
朱は、このときは、鴨緑江を渡ることの政治的、外交的な意味を検討する余裕がなかったかもしれないとしている。
そして、8月以降、首脳部内で、国境を越えるべきかどうかが論争の焦点となった。
東北辺防軍
司令部は司令官兼政治委員 栗裕。しかし、病気のため赴任せず。回避したという説も浮上。8月に高崗を司令官として兼任させた。
第13集団軍(38、39、40軍)等で25万5千人。
9月6日に中南軍区から50軍を編入。
林彪の役割
朱によると、7月7日から、政治的軍事的方針が変化し、台湾進攻作戦の正副司令官栗裕と簫勁光を東北にあてることとなった。また、米軍との交戦を念頭に置き、韓国軍の戦闘力を軽視した。林彪に軍事作戦準備の大きな権限が与えられた。8月初めに、北京の中央軍委に移動したのである。
しかし、林彪の役割は今までの中国軍事史で黙殺されているそうだ。また、10月初めに林彪が義勇軍総司令官の就任を拒否し、彭徳懐が召還されたことも、波乱の一端を見せている。
朱は、毛沢東が参加していなかった理由を論じている。
そして、この段階で、政治局が参戦の可否を論じていないことを指摘し、しかし10月の参戦決定プロセスは8月から始まっていたとした。
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